SAPHO症候群日記と私ごと。

SAPHO症候群と診断された私の日常や感情や私ごと。

私ごと。母親依存症

小さな頃から複雑な家庭環境。

兄弟すべて父親が違う。

母が私の父から金を無心され、殴られ、

私の父と血のつながらない姉も辛いことばかりだっただろう。

私も母と父が喧嘩していた時はトイレに逃げて隠れていた。

母は生活のために1日ほとんどの時間いろんな仕事をして働いていた。

父の暴力と金の無心に耐えられず家を出た。

父ではない男の家に転がり込んでお世話になった時期もあった。

最悪だったけど、雨風しのげた。

男の家に転がり込んですぐ姉は出て行った。

 

 

小学校を卒業した歳、家賃22000円の風呂なしアパートへ

男の家を出て母と二人で暮らした。

その頃母は朝から夕方までスーパーの鮮魚コーナーで働き、

夜は近所の居酒屋のキッチンで働いていた。

 

 

私は母が大好きだった。

母も私を大好きだった。

過干渉な母の存在が重かった。

なのに母が大好きだった。

 

誰よりも大好きだった。

大切で唯一無二。

完全に共依存

 

異常な程母が心配で一人にできなくて、

自分の人生のチャンスをたくさん諦めた。

兄も姉も早い段階で結婚し家を出た。

父親はいない。

思春期はほとんど母と二人暮らし。

私は母が39のときに生まれた子。

現在、母76歳私36歳。

 

私は母親依存症。

これが人生の大半の課題だったと思う。

 

兄弟で私は末っ子、兄弟みんな家を出てからずっと母との暮らし。

私は母にそっくりな性格。だいたい考えていることはお互いにわかる。

 

そんな私も結婚した。

ちなみに私は再婚。旦那は初婚。

 

旦那は長距離トラックの運転手。優しい人。

帰ってくるのは週に1回程度。過酷な仕事。

旦那と私は結婚しても今の生活を維持する方向で話し合い、

子供は持たない夫婦として生きていくことにした。

お互いの母とお互いの実家で別々に生活している。

 

私の母親依存の性格的には精神衛生上助かっている。

 

ただ、旦那が帰ってきたらご飯を作ってあげたい。

お風呂を沸かして待っていてあげたい。

長距離運転して、数日あった出来事をたくさん聞きたいし話したい。

愛しているから一緒に住めないことが申し訳なくて仕方ない。

 

たくさん洗濯物を持って帰ってくるだろうなとか、

身の回りのことしてあげたいなとか考える。

ただ、さらに別に家を借りて二人の場所を作るのは経済的に難しい。

 

若い時からよく考えていた。

私は母のために生まれてきたのか。

母の面倒を見るために生まれてきたのか。

私の人生はなんなのか。

それを考えるととにかく苦しくて、その先の人生の光は細く長かった。

 

 

母はシャキシャキ元気なとき、母としてではなく

女として生きる節があった。

幼い頃は理解出来なかったし受け入れられなかった。

 

本当にいろんなことがあった。

私の兄弟は全員父親が違う。

女癖の悪い奴、ギャンブル依存症のクソ野郎。暴力男。

男運のない気の優しい母。

自分で選んだんだろうと言われればそこまでだが、

そんな単純な話ではないんだと私も理解している。

 

ここ最近兄が自死で亡くなった。

 

あっという間に今年一周忌。

 

 

兄が亡くなってから母はずいぶん衰えてきた気がする。

風呂に入るのもまたいで浴槽に入れなくなった。

子供用のお風呂階段を購入し、やっと入浴できている。

 

またおしっこを少しちびってしまうことが増えたり、

便座シートから尿臭がすることもある。

 

買い物へ行く時は杖をつくか、私が手を引く。

月に一回の定期通院に同行必須。

母の老いを確実な現実として

受け止める時期がついにやってきたなと日々ひしひしと感じている。

 

 

だから迷いがなくなった。

これから私の収入で母と二人で安いアパートに引っ越して

母の最期まで一緒に過ごそうと決めた。

ドライな姉夫婦には頼らない。

 

ここで一気に私の頑固が飛び出す。

私、とにかく頑固。

 

 

旦那も理解してくれているのかわからないが、

お互いの母をお互いで支えていこうと声をかけてくれたことに心から感謝している。

 

 

母よ、無理しないで。

体を大切に。

たくさんの困難を乗り越えて76歳になった。

あなたの人生をもっと聞いておきたいし、たくさん話しておきたい。

母のことも、父のことも、何度となく恨んだけど。

私の母はあなただけ。

 

これからは母と穏やかな人生を一緒に過ごしたい。

後悔のないように。

 

いつも可愛い母よ。

私を愛してくれてありがとう。

私の旦那を愛してくれてありがとう。

 

 

 

私の人生はなんなんだろう。

 

SAPHO症候群⑤

大学病院の整形外科を受診してから翌日、

職場の課長に現場を報告。

 

今となっては病気の話しをしなければ良かったとしか思わないが、

病院に行くので仕事を休ませてもらっていたし、

現状の報告は必要だと感じたから課長に話した。

 

SAPHO症候群なんて知らない方が当たり前な病気。

インターネットで検索してもなかなか罹患者が理解できる内容のものはなく、

専門用語満載の説明ばかり。

人に説明するこちらも一苦労。

なかなかうまく伝わらない。

骨が溶解しているというパワーワードしか相手に残らない。

 

私の仕事は1日のほとんどの時間を運転する配送業。

運転中に何かあっては困るので、病状の把握がしっかり出来るまでは、

事務所の中で受注の仕事をできるようにしましょう。

と提案があり受け入れるしかなかった。

 

本当に受注の仕事が嫌で仕方なかった。

なぜか?

 

コロナが感染拡大し、自分の部署でも罹コロナ罹患して休む人が増えたことで

欠員の補充を自分の部署で出来るようにしようと受注の人は配送を、

配送の人は受注を覚えていきましょうという動きになり元々半年ほど前から

配送業務は続けながら受注業務の研修を受けていた。

 

その時に元々受注をしていたMさんから嫌がらせを受けるようになり、

一緒に仕事をするのが耐えられなかった。

その旨を上司に相談すると、「僕も嫌がらせされてます」「わかります」

「Mさんが原因で一人辞めたりしているんですよ」とのこと。

正直びっくり。ちなみにそのMさんは私と同じ派遣会社。

幸いにも研修中でMさんと一緒になるのは月に数回のことなので、

Mさんとは被らないようにシフトを考えてもらっていた。

 

しかし、今回は毎日受注で中で働かないといけない。

ずっとMさんと一緒。いやいや無理無理。

けど仕方ない。

 

課長が朝礼で部署の皆さんにその旨説明。

その日からMさんからの嫌がらせエスカレート。

 

 

Mさんは、なんで配送で入ったのに受注にくるの?

と社員に言う。

私は持病があるので配送はしませんし重いものは持ちません。

と宣言。

私は持病があるけど受注に来たukaさんは今日も元気でした。

と私の派遣会社担当者へ謎のLINEを送る。(同じ派遣会社のため)

 

いや、頭おかしいだろ。

私は受注したくてしてるわけじゃない。

ってか配送に戻してくれ。

 

ボルタレンを毎回飲み、胸コルセットをして痛みに耐えてる。

けど、痛い痛いと言いながらアピールしながら仕事したくないから

普通に動くし、笑顔で働いてトイレで泣いてんだよ。

 

早く配送に戻りたかったし、

自分で病気の内容も理解出来てないのに環境がガラッと変わって本当に苦しかった。

誰にも痛いなんてわからない。

伝わらない。

悔しかったし、情けなかった。

 

 

一生懸命、誠実に仕事をやってきた。

それだけは自信をもって言える。

だけどコマだったんだと実感してモチベーションもなくなり。

すべて壊れた。

 

 

 

 

 

 

私ごと。初めての確定申告

2023年10月末で前職退職。

2024年に入っても仕事が決まらずずっと無職。

 

確定申告をしなければ。

前年度給与を確定申告。

人生で初めての確定申告、いつも年末調整はそのときの職場でしてもらっていたから

自分で確定申告なんて難しすぎて頭パニック。

色々調べると今はLINEから税務署に予約が出来るみたい。

2月に入ってLINEから予約。簡単すぎて不安になるアナログ36歳。

 

私の地域の税務署はとーにかく小さい!狭い!

早く行って車で時間まで待ちながらスイカゲームでもしようかなと思って

少し早めに行ったら車が多すぎて入れない!笑

案内に応じてじわじわ進んで駐車場に着いた頃には予約時間でした。

人は多かったけどとても案内はスムーズでわかりやすくて簡単でした。

派遣だろうけど、可愛いスタッフのお姉さんが丁寧で。ご親切にありがとう。

何もわからないので助かりました。

こういうことは実際にやってみるといい経験になるし、

ひとつ知識がついたなと思う。

これで確定申告も怖くない。

 

 

 

という話。

 

 

私ごと。大型免許

2023年10月末に医薬品配送の仕事を辞めた。

本当は仕事がある限り辞めたくなかったし、辞めるつもりもなかった。

 

ただ、本当に人生って何が起こるかわからないもので

自分の気持ちとは裏腹に病気がわかって会社に報告してから

働きにくくなった。

 

悲しかったし絶望した。

 

ここできちんと言いたいのは、SAPHO症候群は

必ずしも就業困難な病気ではないということ。

ただ出ている症状や痛みの具合は患者さんそれぞれだから

仕事に支障が出る方もいらっしゃるかもしれない。

そこは個人によって違うと思うけど。

 

 

 

そのような感じで次の仕事を探さないといけなくなった。

持っている資格を活かせる仕事で興味のある職種はなく、

自分の性格上ひとりでコツコツ出来る仕事が向いてると思うし、

運転をするのが好きだったのことが決め手になり、

大型トラックの免許とフォークリフトの免許を取得することを決意。

無事にどちらも免許を取得できた。

 

 

トラック運転手の求人に応募していった。

 

まだ大型怖いから2t〜4t車で出来る仕事がいいな。

いきなり大型はやっぱり無理だろうな。

 

様々なことを考えながら面接を受け続け約7社。

給与や休日の内容が求人と違いすぎてほとんどが辞退。

あとは未経験不採用。

プラス、眉毛刺青ヤクザみたいな面接官から大型免許取ったからって

大型乗れると思ってんの?!o(`ω´ )oなどと言われて

怖かったり。落胆したり。運送業界への転職を諦めかけている。

 

悪いけど、人生そんなに甘くないのは重々承知。

未経験はねぇ・・・と言うが、

誰でも最初は一年生じゃない?

やる気があって自分で免許も取得して就職活動してるんだから

最初から否定せず採用側も少しは前向きに考えてくれ。

 

いまここで、現在無職。

 

転職活動どうなるのか。

 

人生って難しいよね。

私ごと。兄の自死

兄の自死

 

2023年4月25日。兄が死んだ。

54歳。首吊りだった。

 

 

4月25日仕事が終わり、買い物をして用事を済ませ

さぁ帰宅しようかと車を出そうとした瞬間電話が鳴った。

母からだった。

 

私「もー、なぁん?今から帰るけど。」

母「仕事終わったんやったら早く帰ってきて!

  姉ちゃんもたちも来とるけん!」

 

少し怒っているような悲しいような投げやりな言い方。

 

私「んー。はいはい。」

 

急いで帰宅する。

 

 

うちの狭いダイニングテーブルにぎゅうぎゅうに母、姉、姉旦那が座っていた。

何か変な空気。

 

私「どしたん?」

姉「兄ちゃんが死んだんよ」

 

え?

 

状況がのみ込めない。

 

 

私は3人兄弟

種違いの兄と姉がいる。

つまり3人とも父親が違う。

 

兄とはあることがきっかけで絶縁して8年

一切会ってないし、連絡先もお互い知らない状態。

 

兄は個人事業主で建設業をやっていた。

いわゆる一人親方

私も仕事を手伝ったことがあるが人当たりはよく、

業界の中では若手で評価も高かったよう。

仕事が丁寧でよく褒められていた。

仕事が好きで根っからの職人気質。

仕事してるか、飲みに出てるかのどっちかみたいな人。

 

 

 

ベトナム人の女と地元のスナックで知り合って結婚。

すごい歳の差。

絶対に永住権欲しいだけで騙されてると思ってたから

お祝いの気持ちもなかったし、とにかく関わりたくなかった。

 

 

兄は再婚なので子供が前妻との間に女の子2人。

ベトナム嫁との間に男の子2人。

 

2年前くらいにベトナム嫁が新しい男と駆け落ちみたいな感じで、

子供を兄のところに置いて出ていって連絡が取れない日々があった。

母に兄から相談の連絡もあったみたい。

母がベトナム嫁に電話して説得したみたいだけど、それが効果あったのか

わからんが、戻ってきたらしい。

 

これは兄の死後嫁から聞いた話。

嫁が新しい男作って出て行ったことが原因か兄が鬱っぽくなっていった。

死にたいと言うようになっていったらしい。

ちなみに糖尿病と心臓疾患もあり近々入院する予定だった。

母は兄と連絡をとっていたから情報は少し聞いていた。

 

実は自殺する数ヶ月前、何やら薬をODし病院に運ばれた時があった。

その時はベトナム嫁、ベトナムに帰省中で母に病院から連絡がきた。

母、姉、私で病院へ向かい説明を受ける。

命に別状はなく2週間くらいで退院したそう。

 

思えば、この時死にたかったんだろう。

 

 

 

悔しかったし、何も知らずに何も出来なかった苦しさが半端なかった。

 

兄とはほとんど一緒に暮らしたこともないし、

性格も合わない。攻撃的で、気が荒い人。

あんなに強かった人が?自殺しちゃうの?

頭が混乱した。

 

 

亡くなっているのが発見された日4月25日警察から母に連絡があったようで、

大混乱!話を理解できず途中で電話を切ってしまったらしい。

そりゃ・・・ね。

 

日本語が辿々しく、泣いてばかりのベトナム嫁では対処できず、

再度、警察から連絡が来る。

 

私が対応した。

遺体の状況、葬儀場をすぐに手配して欲しい、死因の検査を解剖医にしてもらうのでその用紙を受け取りに行って下さい。いろいろ指示をいただき動くことになる。

 

姉夫婦は自営で多忙。途中で抜けたりしないといけないので、

喪主は私がすることになる。

 

母は憔悴しきってボロボロ。

心配で仕方なかった。

 

でも私は喪主をやらないといけない。

悲しむ暇がなかった。

自分がしっかりしなきゃ。ちゃんとしなきゃ。

自分の会社に連絡しすぐに休みを取る。

 

とにかく必死だった。

検死から戻ってきた兄はグレーの納体袋に入っていた。

その時着用していた服や下着も綺麗に畳まれ戻ってきた。

 

警察の方と話した際、

股間のすぐ下の太もも付け根あたりに遺書を誰にも見つからないように

ガムテープで巻きつけていたとのこと。

 

遺書には見覚えのある兄の字。

胸が締め付けられて涙が止まらなかった。

 

母には自死とは伝えているが首吊りとは言えない。

きっと一生言えない。

 

また、薬飲んじゃったんだって・・・。

としか言えなかった。

 

私にとってはあまり一緒に時を過ごしたことのない、

思い出も少ない、気の合わない兄。

 

ただ、母にとってはお腹を痛めて産んだ息子。

 

母はずっと泣いていた。

ずっと。

 

納棺師さんが綺麗にしてくれた兄の顔。

母は見つめて「兄ちゃん、お疲れ様」と声をかけていた。

 

葬儀をするにあたって、

兄の人生を考えた。

仕事に生きた人きっとみんなに「さよなら」言いたいだろう。

 

兄の携帯をあさり数人の電話番号を見つけ連絡をとった。

本当に数人。

 

その人たちが連絡の輪を広げてくれたようで

葬儀にはたくさんの花と人が来てくれた。

 

数個しか用意してなかった香典返しを急いで追加してもらい

対応した。

 

兄の人生が少し見えた気がした。

 

 

 

 

 

私からも兄に言いたい。

 

兄ちゃん、お疲れ様。

 

 

 

 

 

 

 

SAPHO症候群④

今から大学病院へ向かう。

今日も痛いなぁ。

36歳にもなるのに、一人で何だか心細い。

だけど病名がわかるかもしれない期待と不安が入り混じり

不思議な気持ちで大学病院へ向かう。

 

到着し、受付。すぐに整形外科へ呼ばれました。

MRIとレントゲンを撮って、血液検査、尿検査をした記憶があります。

とにかくずっと痛くてあまり検査内容を覚えてなくて・・・。

 

しばらく結果が出るまで待機し、呼ばれました。

 

外科医「かなり痛いでしょ?」

私  「はい・・・」

外科医 レントゲンを指さして、

   「胸のここ、骨が溶解してるの溶けてるのわかりますか?」

私  「へっっっ?!溶けてるんですか?」

外科医「この所見では、折れているのではなくてじんわり溶けていると判断します。

    ただ、血液検査を見ても外科の領域ではなくて膠原病の一種の要素が強いので

    膠原病内科の先生に診てもらいましょう。」

私  「は、はい。お願いします。」

 

この時点で、骨が溶解してるなんてよくわからない状態で私の頭の中には、

今まで感じたことのない?マークの数が。

 

ただ、病名断定ではなかったため次回の膠原病内科の受診まで謎の痛みに耐えて

過ごすしかないなと思う気持ちで落胆したのを覚えています。

 

頭の中では、天の声で骨が溶けててその部分がないから痛いんだぁ。

だからあんなに痛かったんだ。とずーっとリピートされてました。

 

外科の先生も看護師さんも本当に優しい方で、

いろいろ提案していただきボルタレンの処方、胸部のコルセットベルトを処方して

いただき少しホッとしました。

 

 

つづく

 

 

見えない病気

このブログは2023年2月、約1年前にSAPHO症候群と診断されてから、

7月頃に下書きしていたものです。

 

 

SAPHO症候群と診断されて約5ヶ月。

最近、痛みはほとんどありません。

鎮痛剤ボルタレンもこの2ヶ月ほど飲んでません。

 

運転中ハンドルを切るときの激痛。

会話をしてても息が続かないくらいの激痛。

髪を洗うのも、体を洗うのも事前に鎮痛剤を飲んでおいて効いてないとできない。

1日3〜4回ほど鎮痛剤を飲んでも完全に痛みが消えない。

気休め程度。

 

あの痛みは何だったんだろう?

悔しさにも似た感情であれは何だったんだよ…と思ってしまう。

 

私の場合は、皮膚に症状が出ていないため、

誰が見ても病気だとは分かりません。

痛みが伝わらないし分かってもらえないことは理解出来ても、

元気やん!とかあの痛がってたのはなんやったん?女優やね〜とか

心無いことを言う人が多すぎる。

 

病気が分かってから沢山傷つきました。

36歳にもなってこんなに傷つくことを経験するとは思ってなかった。

 

治療法も治療薬もありません。

ただ痛みをコントロールして生きていくしかない。

骨は溶け続けます。おおよそ5〜10年で進行していくとのこと。

同情してほしいわけじゃない。

これから出会う人には病気のことを話すのは辞めよう。

元気な人として接しよう。

 

本当に疲れました。